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武蔵御嶽神社

東京都の西方、青梅市と奥多摩町との境に位置する御岳山(みたけさん)の山頂・929mに坐す神社。

創建は神話の時代・崇神天皇7(紀元前91)年と伝わり、文献上での初出も天平8(736)年となる古社。

主祭神は智恵と占いを司る神・櫛麻智命(くしまちのみこと)。相殿に、大己貴命(おおなむちのみこと)、

少彦名命(すくなひこなのみこと)、蔵王権現廣國押武金日命(ひろくにおしたけかなひのみこと)、

日本武尊(やまとたけるのみこと)。"おいぬさま" こと、オオカミの神様・大口真神の伝説でも知られる。

現在でも山岳信仰の霊場として、また "江戸の西の護り" として、東京を中心に関東一円を見守り続ける。

 → 武蔵御嶽神社公式HP

御嶽講

武蔵御嶽神社を信仰・尊崇する人々で構成される団体。

江戸時代頃に端を発し、主に当時の村単位・氏族単位などで組講された。農耕作が生業であったこの時代、

多摩川水系・秋川水系の大元、奥多摩連山の入口に位置する御岳山が水分 (みくまり) 神と考えられたほか、
万葉集の時代から武蔵国で行われていたという「太占 (ふとまに)」にて農作物の出来不出来を占うことや、

「おいぬさま」と親しまれるオオカミの神様・大口真神の火難除・盗難除・害獣除の御力が信仰を集める。
関東一円に分布するが、最盛期には、北は現在の福島、南は静岡あたりにまで拡がっていたとも云われる。

各地で廃れているが、御岳山では各講を受け持つ神職・御師 (おし) とともに、現在も活動が存続している。

御嶽講と木月御嶽講

元禄 (1688) ~ 寛政 (1801) 年間

寛保4(1744)年

天保2(1831)年

昭和7(1932)年

昭和52(1977)年

現在

かねてからの「伊勢参り(お蔭参り)」流行から、全国各地の寺社へのお参りへと発展。関東では富士、榛名、成田、大山、三峯などの霊山を中心に「」が組織され参詣が活発に。御嶽講もこの頃発生か。

同じ川崎市の土橋講に残る『代参帳』にこの年号が記載。

少なくともこの頃には川崎市の講がはるばる武蔵御嶽神社へ「代参」(代表参拝:講または村から数名を選定し、講の代表として参拝。講中安全や五穀豊穣を祈願する)を行っていたことがうかがえる。

御師 服部家に残る『旦中姓名帳』に「木月村」として名簿が記載。

少なくともこの頃には御師が村の講員一軒一軒へ御札を配って廻る「講社廻り(配札)」が行われていたことがうかがえる。

いつの頃からか、木月3丁目を中心とする「木月上町講」と、4丁目を中心とする「木月下町講」のふたつに分かれ、上町講の有志が武蔵御嶽神社の分社を建造

三月、現在の社殿へと改築が行われる。

木月下町講が、武蔵御嶽神社宝物殿付近に「参拝記念石碑」を建立。

昭和後期から平成中期にかけ、講による石碑などの建造が盛んに。

時代は移り変わり、各地で講は解散。御師も存続の難しい状況となってくるなかで、「木月上町講」も「木月下町講」も、ともに存続。

今でも毎年2月の中旬頃に御師が「講社廻り」を行い御札を届け、

加えて上町の分社では、講中安全・町内安全の祈願を行う。

下町は、春に有志が御岳山へ登拝する「代参」を行う。

およそ100年の間、地域住民の心身健康や、行き交う交通の安全をお見守りいただいてきた御社を、次代へ。

〒211-0025

神奈川県 川崎市 中原区

​木月 三丁目 53

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